求道
9月10日は弓道の日らしい。
高校時代弓道部に所属し、二段まで取得できた。
その中でも910を弓道と読む心の豊かさはなかったように思う。
弓道は求道であると考えている。
対峙するのは己自身であり、結果は求めない。
競技としての弓道大会はあるのだが、アーチェリーとの大きな違いは的を狙わないことである。
心技体全てが充実していれば矢は自ずと的中する。
弓道の大会は、日ごろの鍛錬の披露でしかない。
と感じて弓道を行っていたのだが、近隣の高校は当てにいってた。
我が高の足元にも及ばぬ成績だったのだが、数十年後には全国制覇を成し遂げていた。
一つのことに集中して取り組む。
それもまた弓道なのであろうか。
弓道は的に当たらなくてもいい。
そんな時代なのではないのかもしれない。
崇高な事を述べているようであるが、私が部長を務めていた時期は矢先に癇癪玉を貼り付けて爆破させていたので、私の弓道も怪しいものである。
私が運営した部内の方針は、「やりたい人が楽しくやる」といったものであった。
一方副部長は「休む人が多いので休みにする」と対立した。
弓道場は冬辛い。
射場というのだが、半屋外である。
さらに絶対的な運動量が少ないため体は温もりにくい。
部員は女子の割合が高い。
進学校であったこともあり、日常的に参加部員が少ない。
我々男子部員は別の遊びと織り交ぜながらはしゃいでいる。
当然女子部員からの反感が芽生える。
しかし、男子の弓道は伸びていく。
さらに女子部員の反感は高まりボイコットが始まる。
私はやる気のない人に無理強いはしない方針で放置する。
女子が来なくなり、休みを作るようにと副部長(女子)と対立する。
悪循環であった。
マネジメントを学んだ今なら全く違うことをしたであろうと、時折思い出す。
私の性格は弱さを否定もせず救いもしなかった。
やらないという自由意志と決め込んでいた。
弓道は求道である。
的前に立ってから射終えるまで、自分との対話だ。
しかし、思考は無である。
自分は静寂に包まれる。
この感覚にたどり着いた部員が何人いたのだろう。
弓道を愛した私は、誰よりも矢を射った。
部員にも感じてほしかった。
真実を隠して表面上うまくやるだけでは得られない。
残酷でも真実を語り、同じものを見ることが大切だ。
対立を避けることが対立を産む。
やらねばならぬとき、それを見過ごしてはいけない。
弓道は求道であった。
カウンセリングをしているとき、あの静寂を感じることがある。
冷たい沢の奥で静かにロッドを振るうとき、あの静寂を感じることがある。
ただただひたすら夜の帳をあるくとき、あの静寂を感じることがある。
切なく冷たいあの瞬間を、道を求めたものは手にしているのだろう。
あなたは何かを求め突き進んだことがあるだろうか。