おむえす

脳に栄養を

裏切りの先にあるもの

前回の記事を書いた翌日に、暴漢に会い粉砕骨折をした。

信頼していた相手が動物に成り果てる瞬間に対峙したのである。

 

私より少し下の世代がよく、「裏切られた」と表現することを耳にする機会があった。

裏切りとは重大な意味を持つ。「味方を捨て敵に着く」や「約束・信義に背くこと」と定義されている。

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そのような機会が人生にどれだけあるだろうか。

もちろん、受け手側の解釈の問題もあるだろう。

立場によっては裏切り行為と日常的に付き合う人も多いのかもしれない。

心理学では「基本的信頼」という言葉がある。

 乳児期に養育者との関係において獲得される発達課題であるとエリクソンは述べている。

この獲得がなされないと、いつも裏切りに会うのではないかと猜疑心にさいなまれるのだ。

私は幸運にも愛情深い両親の下で育った。

周りから驚かれるほどに相手に信頼を持っている。

時にこの信頼が自分の身を滅ぼすとの忠告を受けながらも、相手を信じていた。

 

はっきり言ってしまえば、自分の感覚に自信をもっていたのである。

私の感じる感覚は普遍的なものであり、相手も同じことを思うであろうと感じていたのである。

 

私を襲った暴漢は、兄弟のように長年関係を築いていた親友であった。

彼は近年立場が変わり、環境が変わり、そして思考が変わった。

彼は動物のように性欲におぼれ、自分のセックスの邪魔をしたと勘違いし、私に暴行を振るったのだ。

 

当然刑事事件である。

間違いなく傷害行為である。

私は全治半年の骨折を負い、体に障害を負っている。

それでも相手を信頼し、関係修復に努めた。

しかし、相手は動物に成り果てていた。

 

性欲という本能で、何も感じず欲望のままに怒りを振り撒き、私を障害者にした後、彼は逃げた。

彼のためを思い、この件を終わらせようとする私に対し、恐怖のあまり脅しを行ってきたのである。

どうすれば逃げられるのか、それだけしか考えられていないようで、嘘を重ね、何一つ賠償せず、そればかりか私に賠償をさせようという理解できない行動に及んだ。

ここでようやく気付いた。

 

「裏切り」

 

私の人生は彼の裏切りによって傷つけられた。

私という存在よりも性欲を満たすことに執着し、私の身体よりも自分の資産や立場を守るために、彼は私を裏切ったのだ。

 

裏切りを感じた時に、私は彼と離別する覚悟を持った。

親愛の情はようやく収まった。

彼が普段私のことを思い出すことはないであろう。

もしあるとすれば、また脅迫をして金銭を強要したい時である。

 

私は日々痛みと闘い、再手術に備えて金策し、日常生活がままならず、障害を負った人生を歩んでいる。

 

裏切りは信頼をしたからこそ存在する。

あなたと別の考えや人生を歩んでいる人は魅力的に感じるだろう。

しかし、根の部分で理解しあえることはない。

あなたと知的レベルが違う相手、それもあなたよりも低い相手と付き合ってはいけない。

相手はいつでも動物的本能に突き動かされて行動するかもしれないのだ。

 

そこを忘れてしまうと、裏切られ、人生が壊れてしまう。

相手を見る目の大切さを感じなければいけない。

そして、変わらないものはなく、相手も変化するのだということを知っておくのだ。

 

私を障害者にした彼は、障害福祉施設の長であり看護師免許を保持している。

性欲におぼれ、動物と成り果てた今、好きなように楽しく生きているだろう。

私は障害とともに、裏切った彼の事を忘れることはなく、信頼していた自分を恨みながら人生を閉じていくのである。