集団療法の専門家としての終わり
職場が緩やかな閉鎖に向かっている。
病院長の高齢化による体調悪化が第一の原因である。
体調が悪化し、外来診療を減らせばよいのだが、後継者がいない。
真実のほどは定かではないが、お子様は本人たちの希望を尊重し、医師の道を強制させることはしなかったという。
そのため、お子様たちは他の分野の専門家として活躍されている。
第二の要因としては、時代の波にもう着いていけないということである。
私が入職した当時よりメディア戦略を展開したかったのだが、病院長の矜持は「必要な人へだけ最高の医療を行う」ことであり、有象無象を相手にする気はなかった。
患者は紹介のみを受付け、完全予約制で診療を続けてきた。
自社サイトの提言は受け入れられることはなかったのだ。
現代では、医療は選ぶものであり、その物差しに並べられないので当院が選ばれることは少ない。
最高の精神科医療を提供してきたという自負もあり、治療はしっかりと終結していくので、外来患者は自然減である。
また、障害者総合支援法のバラマキ施策によって、医療における集団療法は息も絶え絶えである。
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退職勧告は数度なされた。
最初に退職を言い渡されたのは、開院当初からやってきたスタッフが退職することになった時であった。
チームとしてやってきた理想が崩れたのだ。
解散を考えていたのだが、この時は有耶無耶になり気が付くと新しい体制で落ち着いていった。
二度目は病院の展開として就労継続支援B型を開所しようとした時であった。
集団療法からの移行先として、B型を持つことにより更なる就労支援を行いたいという私の思いが、だんだん病院長の思惑と解離していった。
当初は敷地内での開設予定であったが、法人では開所しないと決定し、法人の支援のもとでサテライトの機能を持ちながらB型を数駅先に置くこととなった。
物件を抑え、申請書類を揃え、融資先との協議をしている最中、病院長から離別と支援の撤回を言い渡された。
これにより、B型開所は頓挫し私は勤めながら再就職先を探すこととなった。
その年の8月、次年度の勤務をどうするのか問われ、二次面接を断念し現職に留まることにした。
三度目は暴行により腕を折られた時だ。
二度の入院手術は、病院への負担が大きかった。
私自身腕に障害を持つこととなり、以前のような勤務が完全にはできなくなった。
仕事ができないのでもちろん退職勧告となったのだが、加害者が医療費を一切支払わなかったので、保険診療とならず医療借金を背負うこととなっていた。
頭を下げ、現職に留まり、減給扱いとなった。
そして今回、医療情勢を鑑みて、閉院を検討することになった。
来年1月までの勤務であり、病院都合なので推薦状を受け取り、新しい職を探すことになった。
現職を選んだのは、集団療法をしたかったからである。
精神保健福祉士としての仕事よりも、心理士の仕事の方が対人援助には向いていた。
必要な人に必要な治療を行ってきた。
十数年集団療法を行わせてくれた病院に感謝したい。
外来治療はまだ継続するが、私の仕事は常勤で外来には存在しない。
保険診療とならない無償カウンセリングと、心理検査だけでは給与が払えないのである。
今後心理士が生きていく道を考えながら、私もゆっくりと生き方を変えていかねばならない。