お祭り気質の国民によるハロウィン
作成していた記事の管理が悪く、二日続けて消えてしまったので、今週のお題「ハロウィン」に乗っかってみる。
私はこのような商戦に乗れない残念な人間であるのだが、今年度のハロウィンへの世論の抵抗感には驚く。
もちろん、私自身ハロウィンに抵抗感があるのだが、それは「恵方巻」に抵抗を感じているレベルの忌避である。
やはり、渋谷において実被害を出していることが大きい。
ハロウィンの起源を辿ると、日本でのハロウィンの稚拙さと目的にあやふやなものを感じる。
なぜ、日本人はこうも踊らされるのか。
日本人はややネガティブで卑屈で土着意識が強く排他的である。
その反面、お祭り好きで大衆迎合であり、文化の取り込みが強い。
ハロウィンの目的なぞ、どうでもいい。
古来より何かにかこつけて酒を飲んだり、集団でやっちゃいけないことをやっちゃう民族でもあるのだ。
ハロウィンはハレの日であり、お祭りだ。
無礼講である。
と、勘違いしただろう。
それで事件となった。
合掌。
このハレの日勘違いは精神科の患者にももちろん一程度存在する。
極端なオタク気質を持つ自閉症スペクトラムの方やメンヘラと呼ばれる人格障害の方々で精神科を受診している人がいる。
その方たちは、ハロウィンというお祭りに影響されやすい。
Photo by Beth Teutschmann on Unsplash
数年前のことだった。
いわゆる厨二こじらせ系の女子がクライエントとして集団療法に参加していた。
性的なアピール力が高く、コスプレイヤーであり、オタク趣味を嗜み、ネットでの対人交流がお盛んである一方、対人トラブルが絶えない人物であった。
性的乱脈や自傷が認められ、「境界性人格障害」として治療が開始した。
私はカウンセリング担当ではなく、集団療法において治療者として関わることになった。
一定の間隔で過度の性的アピールを伴う急接近と、突然の怒りを露わにした私への拒絶を繰り返す。
性的アピール期間には、自宅でのラフな格好の写真をみせることや自身の性被害の話題、現在のセックス状況の報告などを甘い声と近い距離で行う。
治療中なので、それは症状と考え真剣に対応するのだが、それでは彼女は面白くないわけだ。
私たちが考えるのは、一種の躁的な防衛をクライエントは行っており、対人関係の術や内的コーピングの主義が性や自傷にしかないということである。
それを言語化することや、他の解消法を学ぶことが治療である。
拒絶期間は唐突に始まり、対話が不可能となる。
それはあからさまで、周囲のものを巻き込んでしまう。
これは、抑うつ的反応であり、イライラ型のマニックディフェンスと考えるのこともできる。
抑うつ状態では弱さや涙による接近が多いので、やはり躁的防衛としての怒りであろうか。
何を話しても返答はなく、聞こえるように悪口を言う。
この期間は、最低限の接近に心がけることとなる。
境界性人格障害の治療においては、その行動の一つ一つに反応しないことが大切であり、クライエントの手技手法がそのような行動化のみであることを理解しておかねばならない。
さて、このクライエントの終結は数年前の今日であった。
ある年のハロウィン当日。
彼女はコスプレで集団療法の場に現れた。
治療の場に似つかわしくない扇情的な装いで、劣情をあおる。
本来であれば同性のスタッフやクライエントの対象となっていない者が対応に当たるべきなのだが、残念ながら全く仕事をしない同僚は放置していた。
仕方なく、本人に「この場にふさわしい装いではないこと」を伝えたのだが、悪いことに拒絶期間であった。
これがアピール期間であれば上手に甘えながら収まったであろうが、拒絶期間であるため黙り込み顔を下に向けたまま微動だにしない。
私がその場を離れたのちしばらくして、突然帰ったらしい。
それ以降集団療法には参加しなかった。
幸い他のカウンセラーによるカウンセリングと、診察は継続できていたので、治療は最後まで終結し、ある程度困らずに暮らせるようになったということだ。
彼女との治療関係が終わったのは「ハロウィン」がきっかけであり、働かない同僚のフォローが無く、いたずらに彼女を傷つけたことが毎年思い出される。
そんなことに気づかない同僚は、昨日「この時期になると思い出すでしょう」とニヤニヤしていた。
ハロウィンを楽しむ分には構わない。
場所と状況をわきまえて、分別のある行動が求められる。
それが祭りである。
責任がないのではない。
祭りは祭りの中で、祭りのルールに従い行わなければならいのである。