イベント疲れ
明けてしばらくしましたが、新年おめでとうございます。
年末年始は業務や手続きに忙殺されて、さぼっていたわけである。
さらに、今冬のイベントへの盛り上がりの欠け方と、日程の悪さで瞬く間に今日になった感はある。
イベントの盛り下がりを考察すると、ハロウィンにおける食傷感に端緒を成すのではないかと考える。
わが国では、異文化を抵抗なく受け入れる風土が醸成されている。
島国であったことは独自文化を成し得、さらに文化の熟成に伴い異文化に対する認識が変わっていったと考えられる。
歴史的に見れば、国土を保持し権力を維持するための封鎖的な政策は何度も起こった。
しかし、国民性であろうか。
抑圧されると爆発的に開放される。
海外文化の迎合が起こるわけである。
これは何も海外文化に限ったことではない。
地方の風習ですら国民的行事となるのだ。
記憶に新しい事で言えば「恵方巻」であろう。
節分には恵方巻を食す。
この10年ほどで。
正しくは、「恵方を向き無言で食す」ことが作法であるらしい。
大阪商人の一部の商戦であったと言われている。
セブンイレブンの商品展開が功を奏し、どの商店でも恵方巻を販売するようになり今日に至る。
ハロウィンはどうであろうか。
ハロウィンの歴史を見ると興味深いことに気づく。
私も以前思い違いをしていたのだが、ハロウィンはキリスト教とは関係ない。
ケルト民族の収穫祭を陽気なアメリカ人がアレンジしたものが、私たちの知るハロウィンである。
さらにこの風習を数年前から陽気な日本のネット民がアレンジしたものが日本に導入された。
個人的な見解では、レイヤーさんたちのイベントであったように思う。
しかし、ここに商機を感じ取った小売業はハロウィン商戦をしかけてきたわけである。
短い期間で加熱したイベントは、多くの問題をはらみ社会問題へとなってしまう。
そうすることで次第に「ダサい」物へと変化し、忌避されていくのだ。
その風潮は盛り上がりと共に着々と勢力を増して行った。
そして昨年のハロウィンの冷めたムードが漂ったのである。
これは国民的行事であるクリスマスにおいても同様である。
モノを楽しむということからコトを楽しむのいうことになったという説もうなづける。
しかし、モノを手に入れられないのも一つの事実である。
クリスマスというイベントに費用を掛けなくなってきているのだ。
クリスマスはもはや大人のイベントから子供のイベントへと帰着しつつある。
子供に向けて「サンタクロース」というキリスト教の聖人から、なぜかプレゼントをもらえる特殊イベントなのである。
このイベントに大人は冷めた目を持ち始めた。
恋人の夜という戦略が消費期限を過ぎたのだろう。
元来、家族で穏やかに過ごす日がクリスマスらしい。
日本では正月ではないだろうか。
生粋の日本人である私は、クリスマスよりも天皇誕生日のほうが素晴らしい一日だと感じている。
イベントは今後なくなっていくのか。
なくならない。
それは特別な意味を持つ日なのだからだ。
しかし、今までのように国民的なイベントとなるには、イベントの数が多すぎる。
土用丑の日にウナギを食べることが出来る人は、どれだけいるのだろうか。
風習に思いを馳せることはあるが、実践は困難となりつつあるのである。
それは我々の価値観の変化や経済問題が大きく影響する。
特別な意味を知り、その意味に則った行動をすることこそ、本来の目的に帰着するのだということを心に留めておかねばならないのだ。