朝井リョウ「何者」とモラトリアム
入院8日目。
朝井リョウ著の「何者」を読む。
朝井氏は「桐島~」だけしか読んでいないのだが、この小説を手にしたときに、何となく不安を感じた。
数ページ読んだところで、内面に突き刺さる鋭い棘がささったような感覚を覚えたのである。
ストーリーを簡略にまとめると、大学4回生前後の男女7人ほどの交流が描かれている。
思春期後期の心性やモラトリアム期の終結に向けた心情が丁寧に描かれている。
丁寧であるからこそ深く突き刺さるのだ。
人間は変化に弱い。
環境が変わると心身に影響を及ぼす。
適応力が求められる。
周りを変えることは難しい。
変わるのは自分である。
変わるということは苦痛だ。
変化からの逃避が、甘い自己解釈を生み、万能感を保護する。
無価値ではない愛される自分を保つために、殻を作り防衛する。
「何者」を読むと、だんだんこの感覚が加速し、あっという間に飲み込まれる。
SNSが生活インフラとなった現代の、承認欲求の行き場と共に、物語も加速する。
映画化される前に一読いただきたい。
映画を見る時間よりも、原作を読む時間の方が長い。
それだけの情報を脳が処理しているということだ。
棘が刺さるタイプの人間なのか、誰かを思い出すタイプの人間なのか感じてみてほしい。