おむえす

脳に栄養を

私という誰か

自分が何者であるか。

 

ふとした時に病魔のようにこの感覚が忍び寄ってくる。

 

何のために生き、何を目指しているのか。

 

不安で押しつぶされそうになり、胸をかきむしりたくなる。

 

このような不安を、「実存的不安」と呼ぶ。

哲学の世界ではこの不安を学術的に定義されている。

精神科領域においては、病的不安や妄想的不安が解消された時に現れてくるものとして認識される。

 

私は何のためにこの世に生きているのか

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 生物学的見地から言えば、種の保存である。

ありとあらゆる生物は、種を反映させるために存在していると言える。

 

人間もそうなのであろうか。

 

我々は、本能や欲求からすると種の保存を望んでいるだろう。

心理学的に考えてみよう。

我々が生きる理由を、マズローが述べている。

欲求階層をご存知だろうか。

 

まず人間の欲求は「生理的欲求」が基底となる。

生きるために必要なものを満たす、本能的な欲求だ。

これが満たされると「安全欲求」へと段階が上がる。

危機を回避し、安全に暮らすことを求め始めるのである。

次に「社会的欲求」が出現する。

社会参加は人間の基本的欲求であり、なにかの社会に帰属することで満たされる。

たとえ引きこもりであったとしても、家族や国民として帰属しているのである。

 

ここまでの三つの欲求は、外的なものを観たいしたいという低次の欲求である。

これが満たされると、高次な欲求が発生する。

これを内的な欲求と言い、心が満たされることを求めるのだ。

 

高次な欲求は、「尊厳欲求」である。

他者から認められ、尊厳を持ちたいと考えるのである。

承認欲求と考えても差し支えない。

 

そして最後の欲求

 

自己実現欲求」である。

 

自分の能力を活かし、自分らしい自分であるということを求めるのだ。

 

私が何者であるのかという哲学的な悩みは、非常に高度な欲求階層に到達していることに他ならない。

 

何物でもない私は、何物でもある私を求めている。

 

自分探しをしているのは、そこにいる私自身なのである。

 

私は何をできるのか

 

私は何をしているのか

 

私は

 

私は

 

私はここにいる

 

私は私である

 

 

 

本能に突き動かされるだけでないあなたは、そこに居る。

 

何者なのか、何ができるのかは、

 

 

すべてあなたの手の中にあるのだ。